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土曜の午後、二時半。 じわじわと鳴く蝉の声を遠くで聞きながら、教壇に立つ教師の筆跡を追う。 白く汚れた黒板に書かれた字は、お世辞にも綺麗とは言えない。 そんな文字の羅列を、自らのノートへと綴りながら、昨日のことを考えた。 好きだと自覚して、そのまま告白した。 きちんとした答えは貰っていないものの、反応を見る限り脈はあるだろう。 太陽の光に反射されて、きらきらと輝く彼の髪。 空色の瞳、染まる頬、薔薇色の唇。 繋いだ手の、体温。 そして、微笑む彼。 今日も彼に会いに行くつもりでいる。 早く、会いたい。 彼の笑った顔を見たい。 思わず手に力を篭めた。 ぱきん、と握っていたシャープペンの芯が飛んで、書いた文字に黒鉛が降る。 それによって現実に引き戻され、その時、タイミング良くチャイムが鳴った。 今ので最後の授業だ、今日はこれで終わり。 後は掃除と、SHRで帰れる。 割り当てられた当番の場所に行って、さっさと終わらせてしまおうと立ち上がる。 「さあピオニー、行こう」 「ええー? お前、どうしたんだ」 「さっさと終わらせて帰りたいだけだよ」 「ふーん…。何か知らんが今日は機嫌良さそうだし、何かあったのか?」 「別に、何でも」 納得いかなさそうな顔をして、彼はにこりと笑った僕の顔をじっと見る。 だが、聞いても何も出てこないと践んだのだろう、それ以上詮索はしてこなかった。 中庭の簡単な掃除を終わらせ、教室へ戻ってくる。 そのころには教室の掃除もほとんど終わっていたようで、担任も既に教室に着いていた。 その後、簡単な連絡と、挨拶でSHRが終わった。 誰にも捕まらないように、さっさと学校を出る。 そして、表通りから裏通りへ。 一度背後を確かめるように振り向いて、誰も居ないことに安堵した。 角を曲がり、彼の家へ。 今度は庭を覗かずともガイが入れてくれるだろう。 玄関の前に立ち、チャイムを鳴らそうとボタンに手を伸ばす。 すると、扉越しでも聞こえる程の口論が、家の中から聞こえてきた。 『大体、何故お前がここに来たんだ』 『…私が行くようにと命令されましたので』 『俺が嫌なんだ、見たくないと言っただろう! お前は、お前は…!』 『…っ、ガイ!』 何かがぶつかる音と、倒れる音。 『やめ…っ!』 怯えたような彼の声。 気付いた時には、玄関の扉を開け放っていた。 「「!?」」 押し倒されたまま目を見開いて此方を見るガイと、押し倒している体格の良い男。 声からして、彼はおそらく、昨日訪れた人間だろう。 二人は僕を見上げ、固まっている。 「外まで聞こえていましたよ」 にこり、と友人には何を考えているか分からない、と言われる笑みで笑ってみせる。 二人は暫く固まっていた。 いち早く立ち直ったのは、押し倒した男だった。 僕を睨み付けて立ち上がると、男はガイの腕を引いて立ち上がらせた。 次いで此方に向き直る。 「何用ですかな?」 「彼と約束がありましたので、こうしてお邪魔致しました」 「ジェイド…」 「…彼と知り合いですか、ガイラルディア様」 昨日も言っていた、彼の名。 気にはなるが、ガイが自分から話してくれるまで無理に近づいては行けないと思い直す。 そして何よりも、まずはこの状況を何とかせねば。 そう思って、睨み付けてくる男に対して、僕の表情は違えど同じようににらみ返した。 「え、と…。そんな、ところ、か…」 「…、今日は帰ります。それから、ご報告もさせてもらいます」 「ヴァン!」 「荷物はきちんと届けさせますので、ご心配なく」 出ようとする男に道を開け、互いに睨み合ったまま見送った。 やがて姿が見えなくなると、中へ入り扉を閉め、呆然と立ちつくすガイに近づく。 扉を閉めたにも拘わらず、彼は男が去った方向を眺めていた。 そんな彼の様子を見て、余計なことをしただろうかと思った。 「…ガイ、すみません」 「え?」 「僕は、余計なことをしてしまいましたか?」 言うと、はっとして僕を見た。 次いで、勢いよく首を振る。 「そんなことない、寧ろ、助かった」 「そうですか。…良かった」 「…何で?」 「貴方に嫌われたくありませんから」 「ジェイド…」 僕の名を呼ぶ彼へ、苦笑してみせる。 すると、彼の目からはぽろりと雫が落ちた。 「が、ガイ?」 「あ、あれ? 悪い…。何でだ、止まらない」 空色の瞳から一つ二つ、はらはらと涙がこぼれ落ちる。 こういう時どうすればいいのか分からず、慌ててしまった。 僕は戸惑いながらもガイを抱き寄せた。 すると、ぎゅう、と同じように彼もしがみついてくる。 肩に湿った感触がする。 強く握られて、皺の寄ったワイシャツ。 触れた体は震えている。 「ガイ…」 「ごめ、ん…。少しだけ、このままで…」 彼の泣き方は、吐き出すように大声を出すのではなく。 抑えるように、小さく呻くだけだ。 ***** 「俺は体が弱くてな。学校もろくに行けないほど酷かった時もあった」 暫くして落ち着いた彼をリビングへ連れて行った。 冷房の付けられたリビングは、相変わらず過ごしやすい気温で。 お茶を出すという彼を引き留め、座って、ただ彼に触れていた。 「入退院を繰り返して…、今は何とか外を歩けるくらいにはなったんだが、長時間はやっぱり無理で。 個室でただ外を見る日々が続いて、学校に行った時に困らないようにと勉強して…。 それ以外することもなく唯毎日生きるのが悲しくて、ガキの頃からずっと絵を描いていた」 「……」 「此処には、十年近く住んでる。 時々手伝いで来てくれる人がいるけど、ほとんど一人で暮らしてるようなもんでさ。 少しでも体を強くするために公園に行ったり、そこらを歩きながら、やっぱり毎日絵を描いて。 そんな生活が、何年も続いた。 お陰で絵だけは何とか得意になれたんだが、それでもこうしているのが苦しかった。 身の回りの世話をして貰わないと、生きていけないこの状態が…ただ、悲しかった」 ぽつりぽつりと語り出すガイに、相づちをしないようにしながら耳を傾ける。 「俺のことを気遣ってくれてか、家族は絵画関係の人を連れてきてくれてさ。 その人に俺の絵を見せたら、こんな素晴らしい絵は見たこと無いなんて、褒めてくれて。 例えお世辞でも、嬉しかった。 絵を数枚くれないかと言われて、渡して…その人が後日来た時に、絵を買い取りたいって言ってくれた。 美術関連の仕事をしないかとか、それから色々と、お世話になって。実際、今も世話になってるんだ」 そこまであまり表情が動かないままだったガイが、苦しそうに眉を寄せる。 「何度か仕事を貰えるようになって、俺は毎日をのうのうと暮らしているだけじゃないって、思えた気がした。 家のことは、体が弱くてもそのうちに何とかやっていけるようになったし、だから平気だと思った。 今度は一人で生きていけるということを、家族に証明したくて…いや、一人で生きてみたかったんだ。 そうして、家を出たいと家族に言った」 一度息をついて自嘲気味に笑うガイは、痛々しかった。 「すると家族の態度は変わった。駄目だと、何を言ってもその一点張りで。 理由を尋ねても、全く教えて貰えてない。何も、話してくれない。 それ以来ずっとああして…彼奴…ヴァンと、さっきみたいな意味のない押し問答をしている」 「……」 「彼奴が此処に来るのは、連絡役兼見張りみたいなもんだ。俺が、何処へも逃げ出さないように。 外に出るくらいの多少の自由は許されているけれど、遠くへ行くことは許されていない。 実際、何度か出ようとしたことがあったんだが、その度に見つけられて連れ戻されたよ。 こんな体だし…もう、俺は此処から出ることは出来ないんだなぁって、…今じゃ諦めてる」 いっそ穏やかとも言える表情で、彼は小さく俯いた。 諦め、その言葉は、彼の本心からのものなのだろうか。 だが、何年此処で過ごしてきたのかは分からないが、彼の様子を見る限り相当苦しんできたようだ。 昨日の会話も、今のガイの話からすれば何となく想像できた。 ここから出たいと訴えた彼。 それを拒否した男と、家族。 悲しみと、怒りを含んだ言葉を、彼は男へ投げつけた。 ──箱庭。 僕が思った言葉は、もしかしたら事実なのかもしれない。 少しだけ外に出る自由はあるけれど、ちょっと広いだけの、そんな庭。 彼はきっと、囚われた籠の鳥。 確かに籠の鳥は、離しても野に帰れない。 餌の取り方も知らず、身の守り方も知らず、野垂れ死んでいくだけだ。 けれど、彼は仕事だって持っているようだし、家のこともしていると言った。 何より鳥じゃなく、考えて行動できる人間だ。 何故彼を閉じこめるのか、何処にも行かせまいとするのか。 「…ジェイド」 「はい」 「ヴァンは、報告すると言った。きっと、君のことが伝えられるんだろう」 「……」 「もう、来ない方が良い。ジェイドに何かしらの迷惑がかかるだろうから」 「そんなの知りません」 「っ、ジェイド!」 拒否すれば、泣きそうになる彼の目。 ああ、先程涙は止まったばかりだというのに。 彼は悲しみの渦中にいる。 ガイが笑う時、時折悲しみの影が見え隠れしている。 あんなにも色鮮やかな絵を描くのに、心から笑ったことはどれ程なのだろうか。 本当の空を知らない囚われの、金に輝く、しなやかな鳥。 囚われているのに、腐らないままの真っ直ぐな心は、酷く美しいと思う。 「…囚われたのは、僕らの方なのか」 「…?」 「いいえ、何でもありません。…僕はガイが好きだと言ったはずです。 貴方を離すつもりも離れるつもりもない」 「…そんな、」 「僕が、貴方をここから外へ連れて出してみせる」 縋るような彼の目を見ながら、僕ははっきりと告げる。 しかし彼は、眉を寄せて呻くように呟いた。 「っ、そんなの、無理だ」 「何故そう言えますか?」 「彼らの手は、きっと執拗だ…。逃げ出せない。もう何年もこの状態で過ごしてる俺だから、分かる」 「構いません。僕はやると言ったらやります。例え何年かかっても」 「ジェイド…」 「…僕が、初めて好きだと思った人が、貴方なんです。貴方の傍に居たい」 「……」 「我が儘でもいい。貴方が、欲しい」 じ、と見つめた。 決して視線はそらさない。 揺れる彼の瞳と、ただ真っ直ぐそれを見るだけの僕。 「っ、俺、ずっと、ここから出たかったんだ…。もっと外を見たかった。色んな誰かと、話をしてみたかった」 「ガイ…」 「苦しかった…悲しかった…、寂し、かった…。誰かと、一緒に居たいと思ってたのに…!」 「…これからは、僕が傍に居ますから。貴方を、連れ出してみせますから」 また、はらはらと涙が溢れた。 涙に濡れる彼は、綺麗だった。 僕はまた彼を、抱きしめた。 夕暮れの赤い日差しが、窓から差し込んでくる。 橙色に染まった彼の金髪を、そっと撫でた。 彼の啜り泣く声と蜩の鳴き声が、二人しかいない室内に染み渡る。 「ガイ、後で水撒き、しましょう。きっと花も待ちくたびれていると思います」 「っく…、う、ん」 「それから、貴方が絵を描くところを、僕にも見せてください」 「うん…っ」 「…いつか、僕のことも描いてくれませんか? 出来れば、貴方と二人で並んでいるものが良いです」 「…うん」 「約束、です」 「…うん、…約束する…よ」 落ち着くのを待っていると彼は疲れたのか、言葉を掛けても反応はもそもそとしてはっきりしなくなった。 このままだと、眠ってしまいそうだ。 「ガイ、此処で寝ないでください。…寝室まで行きましょう」 「…んー」 まるで子供のような反応だ。 どちらが年上なのだか、僕は彼の様子を見て笑ってしまう。 無理のないようにガイを立ち上がらせると、寝室は何処か尋ねた。 とろりとした目で、あっち、と指さしてふらふら歩くガイを支えながら、僕は寝室へと彼を連れて行く。 冷房の掛かっていない寝室は、かなり蒸し暑い。 ベッドへ座らせると、彼は自分で布団の中へと潜った。 部屋の窓を開け、風を通してやる。 遠くに聞こえた蜩の声は、一枚隔てたそこを開けるだけで大分違った。 目を閉じて眠ってしまった彼を見て、そっと額に触れる。 触れた額は少し熱く、顔も赤みが差していた。 泣いたことで体力を使って、熱が出たのかもしれない。 一度部屋から出て、失礼を承知で勝手に物を漁った。 桶に水とタオルを用意して再び戻り、浸したタオルの水気を切って、彼の額に乗せる。 (病人の世話は、したことがないんですよね…) とりあえずは、温くなったタオルを代える程度に留めておくことにする。 少しの間様子を見ていると、ふと思い出すことがあった。 僕は立ち上がると、ガイのアトリエへと向かった。 扉を開けて室内に入れば、香ってくる画材達の匂い。 その中で、折り重なるように置かれているスケッチブックを見つける。 手を伸ばしパラパラと捲ると、それはどうやら会社や店のロゴマークを描いた物のようだった。 所々には、さり気なく落書きと思しき物も描かれている。 (…ビンゴ) デザイナーと言っていたが、このアトリエを見ると、どちらかというと画家の印象が強かった。 これを誰かに見せれば、彼の話を少し聞けるかも知れない。 スケッチブックを持ち一度リビングへ向かい、もう一度それをゆっくりと眺める。 暫くして、それが段々と見づらくなったことで、かなり日が傾いていたことに気付いた。 窓の外を見ると、かなり暗くなっている。 キィ、パタン、と少し離れたところから、扉の開閉音が聞こえた。 スケッチブックを閉じ、自分の鞄へ仕舞い込む。 程なくしてリビングへガイが顔を覗かせた。 「よく眠れましたか?」 「あ…、さっきは、すまない。取り乱したりして」 「いいえ。貴方の色々な一面を見られるのが、楽しくて嬉しいです」 「…恥ずかしい奴だな」 「褒め言葉と受け取っておきますよ」 そっぽを向くガイに、にこりと微笑んでみせた。 「そう言えば…水撒き、今日はしてやれなかったな…」 「今からしますか?」 尋ねれば、考え込むように腕を組む。 次いで、後で自分でやっておく、と言った。 「折角昨日と…さっき、言ったのに。すまない…」 「いえ、ガイも疲れたでしょうし。 熱もありましたから…今日はそれをしたらゆっくり休んでください。僕も帰ります」 「そうか?」 「ええ。明日は…日曜ですね。…そろそろテスト週間なので、十日ほど来られなくなってしまいますが…」 「いいよ、気にしなくて。また来てくれるの、待ってるからさ」 「分かりました」 立ち上がった僕に、ガイも付いてこようとする。 「せめて、玄関までは見送らせてくれ」 「はい」 廊下をゆっくりと歩く。 リビングから玄関までの、短い距離。 下駄箱に手を掛けて、革靴を履く。 一段低くなった僕と、高いままのガイ。 彼の手を取って、軽く引く。 照れたように笑って、彼はそれに従ってくれた。 唇が触れて、離れる。 「じゃあ、な」 「ええ、また来ますから」 彼は、僕の好きな笑顔で微笑んでいた。 back next 2006/12/26 春樹 |