物心ついて少しした頃には、既に手元には何もなくなっていた。
代わりに手に入ってしまったのは、復讐心、それだけ。


女性に触れることはおろか、近づくことさえ出来ないというこの特異な体質のお陰で、
全くそういった、出会い、というものには恵まれなかった。
屋敷にはメイドがいたから、もしかしたら気付かぬうちにそれがあったかもしれないが、
そんな気分にもなれなかった、そう言った方が正しいのかもしれない。
不自由を感じたことは…多少はあれど、それでも目の前の赤毛の子供や屋敷の人間、
主人に対するどろどろとしたどす黒い感情が、幼少の頃からつい最近までほとんどを占めていて、
使いに出た城下町で楽しそうに談笑する男女を見ていいなと少しだけ羨ましく思えても、
特に自分自身、その対象が欲しいと思ったことはない。
ルークが"ルーク"になったときも、丁度思春期と呼ばれる年齢だったがそれどころではなかったから、
そうなってしまうことも、仕方がなかったのかもしれない。

だが、今でも腕を組んで歩く男女を見ても、昔と同じような感情しか生まれてこない。
自分だけのパートナーが欲しい、そんな欲求もやはり特に湧かず、ただ彼らを横目で見てそれ以上の感慨も浮かばず、
結局はふっと目をそらしただけに終わった。
そこで、相当寂しいというか、荒んだというか、そんな人間だなとガイは苦笑してしまう。

もしかしたらもう手遅れなのか、心の回路は何処かずれて繋がっているのかと時々思う。
人を好きになること、友人としてはそう思うことは出来ても、恋人となるとどうにも何とも思えない。
物事を、時には自分自身すらも遠くから他人事のように眺めることは茶飯事で、それは習性と言っていいほどの所まできている。
誰かを好きになれたとしても、ふーん、そうか、で終わってしまいそうな気がしていた。
そんな風にしかなれなかった、とは言わないまでも、そうなるような環境を選んでしまった、ぐらいは言えるのではないか。
つまりは、自分自身の所為なのか、とこれまたガイは、他人事のように考えた。

普通に暮らして、普通に働いて、普通に相手を見つけて、幸せになる。
そんな、普通、もあったのではないかと。
とはいえ、普通、が一体何を基準にしてなのかと問われれば、答えに窮してしまう。
数年前までは休戦状態だったとはいえ、戦争真っ直中の時代ではあったのだから、
普通の状況というのは一般的にどういうことを指すのかは分からないが、
仕事も生活も人間関係もそれなりに円滑に、簡単に表すならばそういうことだろう。
故郷が滅びた経緯や真実を手に入れることは出来ずとも、そんな普通の未来もあり得たのだろうと考えたことがある。
現在に満足していないわけではなく、ただ単に、あり得たかもしれない一つの道筋に想いを馳せただけだったが。
意味があるとは、勿論微塵も感じていない。



どうしてこんな考えに陥ったのかというと、とある貴族から持ち出された一つの縁談が原因なのだ。

焦らなくて良いから、そう言われたが、何をどう焦って、何をどうすればいいのか、全く分からなかった。
この手の話は苦手、というより先も述べたとおり縁がなかったから、
相手が貴族だと言うことも考えに入れて…、対処の仕方がさっぱり浮かばない。
昔旅をしていた時は仲間に散々誑しだの何だのと言われたことがあり、
思ったことを口にしたり行動しただけであってその謂われはないと思っていたのだが、どうやらその考えはいけなかったらしい、
少しは改めなるようにしなくてはと決意させる出来事が、あったのだ。
以前宮殿の前で困っていた女性に声を掛けエスコートしたときに、その女性…貴族に気に入られてしまい、
そうして縁談を持ってこられたということだ。

困っている人、特に女性となると放ってはおけない性質、結局はいつかこうなることになっていたかもしれない。
改めなくては、と思っても、結局はそうできないであろう事は、何処かで分かっている。
そうなることが早いか遅いか、そして今回は早かった、それだけのことだったのだ。

未だあまり良く思われていないはずの自身の立場も気にせずに、持ちかけられた話。
だからこそ、なのかもしれなかったが、悪い話でも無いのだろう、恐らく。
追々跡継ぎのことなども考えていかなくてはならなくなる。
完全に恐怖症が治るまで、どれほどの時間が掛かるか知ることは出来なくても、
考えなくてはならない、避けて通れないところにある道だ。
だが、それを抜きにしても、どうしても考えられないことがあった。

隣に、誰かがいるという、その状況。

先に会った女性を思い浮かべて、その場面を想像してみる。
が、やはりどうにもしっくり来なかった。
会ったばかりどころか一度しか顔を合わせたことがないし、
その人のことを全く知らないのだから当たり前と言ったらそうなのかもしれないのだが、
そうではなく、何と表現したらいいのだろうか。

仕事の合間、ふっと集中が切れた時にそちらへと思考を飛ばしてしまうのは、初めて窮地に立って、
そう、言われた意味とは違うことで焦っているからだということにしておきたい。
とにかく、困惑、その一言に尽きる。
一応、二十四という年齢上それらしい影の一つや二つ、
──二つあってはいけないが、例えとして──あってもおかしくないはずなのに。
ガイは、どうすればいいのかと、ここのところずっと頭を悩ませていた。



そんな折、久々に飲みませんか、とジェイドに誘われた。
断る理由も特にないし、誘われなければ特に飲むこともないガイは、偶には良いかと二つ返事で了承した。
憂さ晴らしや気分転換も、無意識に含めていたかもしれない。
聡く優しい男のことだ、出された縁談については全く話したことがなかったが、
陛下から聞いたか悩む姿にそれとなく気付いてか、だからこそ酒の席に誘ったということもあったかもしれない。
情けなくとも、有り難いことに変わりなかった。

約束の日。
終わった仕事を提出し、さてジェイドの執務室へと赴こうとしたところで、ばたりと出会した。
笑いながら挨拶する男に、手を上げて同じように挨拶する。
ガイの仕事が終わったか確認もせずに、行きますか、と言った男は相変わらずだ。
それに対して、小さく笑うことで返事を返した。

飲むこともそうだったが、会ってじっくりと話をすること自体が久しぶりだった。
連れてこられた、ジェイドらしいと思えるような、静かなバー。
時間が時間だったため、人の姿も疎らだ。
ピアニストがゆったりとした曲を奏でる中で、互いに近況を報告し合った後、不意に沈黙が降りてきた。
別段、何か話題を、とも思わない。
その点で言うと、この男といることはとても楽だと思う。
以前こき使われていたことを考えると、苦く笑うことしか出来ない部分もあるが。

そこで、何となくガイは縁談のことを話してみたくなった。
誰かに聞いて欲しかったのか、ジェイドに相談したかったのか、独り言で聞いているかどうかなどお構いなしにか、
ほろ酔いの頭にはどれでも良かった、相づちがないことも気にせずぽつぽつと言葉を並べていく。
途中からりと音を立てた琥珀をじっと見つめながら、きっかけと出来事と心境を一通り口にした。

全て話し終えた後、何故かとてもすっきりした気分になっていた。
話すと楽になるというのは本当で、その時のガイもまた例外ではなかったのだろう。
ほう、と零した酒臭いため息は、誰が聞いても安堵のものだった。

そうしてまた、ピアノの旋律が二人の間を支配する。
く、とジェイドが酒を飲み干したのを横目で見て、はた、とガイは考えた。
この男ももう三十路はとうに越え、四十路近い。
ガイに来るくらいなのだから、此奴ならばもっとそう言った話は来ているはずなのだが、そんなのは耳にしたことがない。
悟らせないように動いているのだろうが、どうなんだろうか、とお節介もいいところを承知で尋ねてみた。
普段なら、こんな質問はしないだろうと頭の端で考え、酔っているなと内心苦笑した。
そして尋ねられた男は、ちらりと横目に視線をくれると、口の端で笑っただけだった。
言いたくないのだろう、やはり余計なことを聞いてしまったと後悔した。

少しずつ飲んでいた、もう何杯目になるかもわからないグラスをガイが飲み干すのを確認すると、
ジェイドは立ち上がり他の客のためにシェイカーを振っていたマスターに、お代を、と声を掛けてカウンターに札を数枚置いた。
慌てて財布を出そうとすると、男は構わずにそんなガイの手を取り、マスターのありがとうございましたという声もそこそこに、
店から引きずるように出て行った。

外は少し肌寒く、火照った体には丁度良かった。
街灯の灯る道は薄暗く、それでも歩くには十分な明るさで石畳の道を照らしている。
店を出るまでは強引という言葉がぴったりなほどに強い力で引きずっていたにも拘わらず、
出て少し離れた途端に、その速度は緩やかになった。
どうしたのだろうか、と一歩前を歩く男の背を見やる。
視線は感じているだろうに、振り返る気配は全くなかった。

仕方がないので、何と無しに空を見上げた。
瞬く星と共に、月がぽかりと浮かんでいる。
欠けた月、完全ではない姿、どちらかというとそっちの方が好きだなぁ、とガイはぼんやりと思った。

「私は」

緩やかだった歩みは、声と共に完全に止まった。
月から男へと視線を移し、ん?、と短く聞き返すことで、返事とする。

「貴方が好きですよ」

振り返り、真っ直ぐ射抜くような目をしながら、ジェイドが言った。
いつものように読めない笑みも、時折浮かべる優しい笑みもなく、無表情、だった。
いや、無表情というのは語弊があるかもしれない。
仄明るい光でも分かるほど、赤い瞳は真剣そのものだったから。

冗談ではないとそれだけで悟ることが出来たが、しかしどう返せばいいか分からなく、ガイには見つめ返すしか出来なかった。
好きとは、何だろうか。
咄嗟に思い浮かんだ言葉はそれで、だが、それを言ったらジェイドに対して失礼に値することだけは何となく察して、口を噤んだ。
結論として言えたのは。

「俺も、好きだよ」

それだけだった。

誤魔化すように、一緒にへらりと笑ってしまった気がする。
それがいけなかったのか、ジェイドは額に手を当てるとため息をついた。

「酔ってますね?」
「酔ってないよ。あんなこというアンタの方が酔ってるんじゃないか?」

この男があれくらいの酒で男が酔うはずないと知っていて、また笑いながら言ってやった。
酔いさましに丁度良いと思っていた外気も、特にそんな作用は及ぼさなかったようで、未だにほろ酔い状態が続いている。

「酔っぱらいは、みんなそういうんです」
「そうかぁ?」
「ええ」
「…じゃあ、」

薄く笑ってみせた。

「認めたくないだけ、だな。自覚はしてる」

そんなガイに、ジェイドは苦笑した。

「質が悪い」
「そうだな」

今度こそ、声を出して笑った。
近所迷惑になるかと一瞬そんなことが頭を過ぎったが、まあいいか、で済ませてしまう辺りやはり酔っている。
時間が時間だ、家の明かりなどほとんど灯っていない、皆寝静まっている。
そんな時間にこうしていることが楽しく思えてきて、今度はガイが先導するように鼻歌を交えて歩き出した。

「今更酔っぱらいにならないで下さいよ」
「もう酔ってるって、旦那が言ったんだろう? 変わりゃしないさ」



送っていくという男にいいよと返したが、素直に送られなさいと言われて、それ以上の反論を止めた。
ゆっくりと歩いて、暫く。
屋敷の前に着き、ここでいいから、ありがとう、と手を放そうとした。
それを許さないとばかりに、く、と握る力を強くしながら、ジェイドは手を少し引き寄せる。
自然とガイ自身も近くに寄ることになり、しかしそれは予想していなかったことだったので、バランスを崩した。
慌てて体勢を整えたところで、男が掠めるように、

「…!」
「貴方の場合は外れて繋がっているのではなく──。ただ単に、まだそれ自体が繋がっていないだけですよ」

何、と問おうとしたところで、体と一緒に手を放された。
言われた言葉の意味を探して呆然と離れる背中を目で追っていると、はたと気付いた時には既に姿は見えなくなっていた。
残ったのは、手にほんのりと残った先程の温度だけ。
それがなくなったのだと気付いた時に、離れた温度を寂しいと同時に恋しいと思った。
出来るなら、もっと感じていたかった、と。

(ああ、好きって、こういうことなのかな)


そこで漸く、カチリ、と何かが填った音が聞こえ、胸の奥底に光と熱が灯った気がした。








  end




  2007/5/4 蓬