「こんにちは」

カラカラと小気味よい音を立てて鳴る鈴を聞きながら、男は小さな店の扉をくぐる。
外見通り中も比較的小さな其処で、目当ての青年は佇んでいた。
彼は来客に対しその整った容貌に笑みを乗せ、いらっしゃいませ、と聞き慣れたテノールを紡いだ。

店内は人が少なく、青年と男、それと青年と同じ従業員である老年の紳士、この三人しかいない。
だがそれは、初めて訪れた時からそうであったため、男にとって特に疑問に思うことでもない。
むしろ、静かなこの雰囲気は好ましく、心地よくすらあった。

「こちらへどうぞ」

青年に促され、男は小さく微笑みながら頷いて、引かれた椅子に座った。
鏡越しに目が合い、青年は男へと訊ねる。

「いつものカットで宜しいですね?」
「ええ。よろしくお願いします、ガイ」

ガイ、と呼ばれた青年は、分かりましたと一つ頷いた。
滑らかな指が、男の榛色の髪をするりと撫でる。
どのように切るか等、考えているようだ。

男──ジェイドは、その触れてくる指の感触を楽しみながら、ゆっくりと目を閉じた。





彼の店に通うようになったのは、社の同僚に紹介されたのが切っ掛けだ。

ある夏のこと。
毎年この時期になれば自分の髪は鬱陶しくて仕方がなく、そしてその日は殊更日差しが強かった。
首元が暑苦しくて敵わないと、偶々結い上げていたのだ。

外から見た時はそうとは見えないと言われても、こちらとて人間だ。
一部にはジェイドにとって失礼ながら否定されつつも、暑いものは暑い、そう思っている。

そんな男の姿を見留めた幼馴染みであり親友兼男の働く社の社長は。

「暑いなら切れ。見てるこっちが鬱陶しくて仕方がない」

と、彼自らも髪を肩まで伸ばしジェイドと同じように結い上げている上に、
ヘアバンドまでした姿で暑い等と宣っている。
更にそれを理由に仕事をサボっているのだから、始末に負えない。

「貴方にその言葉をそっくりそのままお返しします」

その後はいつもの応酬だが、彼の言うことも尤もだと頭の片隅で思っていた。

ジェイドはあまり美容院が好きではない。
それが床屋であろうがサロンであろうが、関係ないのだ。
要は、他人に自分の髪や肌に触れられることを嫌っている。

この質の悪い社長──ピオニーは、それを知っていながら言ってくる。
からかい半分、本気半分と言ったところだろう。

そんなところに、同僚であるアスランが社長室へと入ってきた。
彼の腕には書類の束が収まっている。
開かれた扉の音と共にそちらを向いたピオニーがそれを発見し、あからさまに嫌な顔をした。

「カーティスさん…珍しいですね」

そんなピオニーはお構いなしに、アスランはジェイドへと話しかけた。
どうやらほとんど見ることの出来ないジェイドの姿に興味を引かれたらしい。

「ああ、これですか」
「ええ」
「こいつ暑いからって、結んでるんだぜ。だったら切った方が手っ取り早いと思わんか、アスラン?」

パタパタとアスランから手渡された書類を扇代わりにしながら、嫌な笑みを浮かべてピオニーは言う。
それを聞いて、アスランは少し考え込んだ。

「そう…ですね。私は別に短くなくても良いと思います。要は、少しでもさっぱり出来れば宜しいのですよね?」
「まぁ、そうなりますか」
「私の知り合いに、腕の良い美容師がいるんです。良ければ紹介しましょうか?」
「それを正に今、悩んでいた所なんです」

ジェイドは掛けた眼鏡に手をやり、押し上げる仕草をする。

「私はあまり美容院が好きではないので…正直なところ行かなくて済むならそれでいいかと」
「そう、なのですか…」

行きたくない理由を詳しく語ろうとしないジェイドに、軽く茶々を入れるようにピオニーが口を挟んだ。

「ジェイドの奴はな、他人に自分の頭を触られるのが嫌いなんだと。な?」

ピオニーを軽く睨むように、ジェイドは横目で彼を見やった。
本当は理由はそれだけではないのだが、言っても無駄だし話をややこしくするだけだろう。

「まぁ、そんなところです」

そう言うに止めておくことにした。

「では、髪はそのままなのですか?」
「ああ、いえ、そろそろ行こうとは思っていたんですがね」
「ジェイド。折角アスランが紹介してくれるっつーんだから、行ってきたらどうだ?
 後に行くも先に行くも、結局はいつか行かなきゃならんのだから、変わりはせんだろが」

正にピオニーの言うとおりだ。
ジェイドはそれを悩んでいた。

いつかは行かなくてはいけないのだから、今行けば後が楽になるだろうかとジェイドは思った。
彼の紹介ならもしかしたら、という気持ちがあったのかもしれない。
この時、ジェイドは何故か行ってみようという気になった。

二人の期待が込められた視線を受けたこともあり、ジェイドは一つため息をつくと、
フリングスにお願いしますと了承の旨を伝えたのだった。



その数日後、アスランはジェイドにメモを手渡した。
ジェイドがそれを見ると、店の場所と予約の時間等が記されていた。

「裏通りにあるので道が少し複雑で…。本当はそこに案内できるはずだったのですが…」
「構いませんよ。それに、あそこで暑いからと言って未だにぐうたらしている人間を放ってはおけません」
「すみません」
「どうやら近くのようですし、子供ではありませんから一人で行けますよ」
「そうですね」

もう一度謝って、アスランは笑った。
近くでその様子を見ていたピオニーは、日取りは何時だとジェイドに訊ねる。

「今週の土曜ですね」
「は!? お前、その日は仕事があるだろうがっ」
「全て貴方にお任せします」
「何言って、」
「この間、暑いからと言って手を付けなかった貴方の仕事を、ほぼ全て代わりにしたのは誰でしたっけ?」

その言葉にピオニーは固まり、次いで肩を落とした。

「…はぁ、分かった。その日は休みにしてやる。そのかわりボウズにでもなってこい」
「丁重にお断りさせて頂きますよ」
「あははは…」



   *****



約束の土曜、ジェイドは会社近くの裏通りを歩いていた。
相変わらず太陽はその存在を存分に主張しており、ジェイドにとっては迷惑なことこの上ない。

暑さからか自然とため息を零すと、ポケットから小さなメモを取り出した。
店の名前は書いておらず、あるのは道と目印くらいだ。

(確か…腕が良いと言っていましたね。予約制なのだとか)

予約制ならそこまでではないと思うが、あまり煩いのは好きではない。
そうでなければいいと思い、しかしあまり期待をしないでジェイドは歩き続けた。
そして、裏通りに入るために、表通りからの角を曲がろうとすると。

「うわっ」
「っ、」

急に角から飛び出してきた青年とぶつかりそうになった。
間一髪で避けたものの、相手は転んでしまったようだ。

「、つ〜…」
「平気ですか?」

一応、儀礼的にそう声を掛けておく。
痛そうに膝を押さえていた青年は、掛けられた声によってジェイドの存在を認識したようだ。
がばり、と立ち上がると、勢いよく頭を下げた。

「すみません!お…私の不注意で。お怪我はありませんでしたか?」

あまりにも勢いが良かったので、今度は此方が驚いてしまう。
少し反応が送れてしまったが、何とか返事をした。

「…。いえ、平気ですよ。貴方の方こそ膝をぶつけたようですが?」
「ああ、お気になさらず。…本当は時間があれば、何かお詫びでも出来たらと思うのですが…」

転んだという事実をジェイドに指摘され、青年は苦笑しながら恥ずかしそうに頭を掻いた。
少し顔も赤くなっている。
その様子に、素直な青年なのだろう、と内心感想を零した。

「いえ、構いません。私もこの後予定が入っていますので」
「…そうですか」

そういう青年の顔は本当に残念そうだった。
それに対し、何故かちくりと心が痛んだ気がしたが、それは故意に無視した。
もし自分と彼に時間があったなら、何か面白いことがあったかもしれないと思うと、
ジェイドはこの後の予定と長くなった自らの髪を少し恨んだ。

再び謝り、駆け足で去っていく青年の背に、また誰かとつぶかりはしないかと思いながら少しだけ見送る。
そうして、自分は目的地の方向へと踵を返し、歩き始めた。



先程から歩き、10分ほど立ったところに、そこはあった。
店の看板らしきものはなく、代わりに紙に一番の目印だと書かれていた、大きめの花壇があった。
そこには色取り取りの花が咲いており、見る者の心を和ませる小さな花畑のようだった。

しかしジェイドは、それとは反対に此処で本当に良いのかと躊躇いを感じた。
普通、美容院でも床屋でも、何処かしら看板が立っていないだろうか。

もう一度ポケットから紙を取り出し、メモを眺める。
やはり、店の名前は書いていない。
だからか、と思わないでもなかったがいつまでもこうして店の前に突っ立っているわけにもいかず、
ジェイドは仕方なく扉を押した。

カラカラと小気味よい音を立てながら、鈴が鳴った。
店内は入って直ぐに全体が見渡せるほどに小さく、其処には老年の紳士が背を向けて立っていた。

客がそれなりにいるだろうという予想とは反し、ジェイドは再び後悔した。
本当に腕の良い店なのか、もしかしたら間違えてしまったのかとらしくもなく不安になる。
しかしアスランから渡された紙には、此処以外にそれらしき場所はない。
彼の言葉を信用していないわけではないが、これではあまりにも。

そんなジェイドの心情とは裏腹に、紳士は鈴の音を聞いてか此方に振り向いた。
ジェイドの姿を見留、微笑むと腰を折った。

「いらっしゃいませ。ご予約頂いた、カーティス様で宜しいでしょうか?」
「…ええ」
「大変申し訳ないのですが、少々お待ち頂いても…?」
「構いませんが…何か?」
「ああ良かった。今、お茶をお出しします」

言って、紳士は奥まで入っていくと、少し経ってポットとカップを用意して戻ってきた。
勧められた席に着き、紳士はその少し離れた場所に立った。

「実は、美容師が今買い付けに行っているのです」

申し訳なさそうに話す紳士の言葉を聞きながら、出された物に一口、口を付ける。
香りがとても良い、どうやらハーブティーのようだ。

「いえ、どうやら私の方が早めに来てしまったようですし」

壁に掛かった時計を確認すると、時刻は1時50分ほどだった。
約束の時間は2時だから、今の内なら間に合うだろうといったところだったのだろう。
それにしても。

「失礼ですが、貴方は美容師では?」
「ないのです。こことこの下の店のオーナーをしております。
 この美容院は、空いたスペースを利用して営んでいるのですよ」
「そうでしたか。下の店…というと」
「小さなバーを。私はバーテンダーの端くれでございます。…営業のようで何ですが」

再び紳士は奥へ向かう。
その後ろ姿を見ながら、先程考えたことは失礼だったかと思い直した。

そうして、戻ってきた彼が苦笑しながら渡したのは、カードだった。

「下の店は会員制なのです。お待たせしてしまった代わりに、今度カクテルでも…」
「ただいま、ペールっ!お客様は!?」

会話を中断するように、ばたばたと慌ただしく入ってきたのは、先程ぶつかったあの青年だった。
余程走ったのだろう、肩で息をして額には汗を流している。
急いでいた理由は、どうやらこのためだったようだ。

「これ、失礼だろう」

紳士の言葉に、ジェイドの存在に気付いた青年は慌てて居住まいを正した。

「あ、も、申し訳ありません」

そんな青年に、ジェイドは軽く微笑んでみせる。

「いいえ。この方と話しましたが、私の方が早く来てしまったのですからお気になさらず」

ジェイドの言葉に、青年は少し安堵したらしい。
次いで、ジェイドの顔を見て驚いた。

「あ、貴方は!」
「先程はどうも」

すると今度は更に恐縮してしまったようで、体を硬直させた。
その彼の様子に対し笑いながら、カットをお願いできますか?と訊ねれば、
キリリと表情は一変して、仕事人の顔になる。
(なかなか好感が持てますね)

畏まりましたと頷く青年を見ながら、そんなことをジェイドは思った。








  end

美容院や美容師の内情は知らないので、その辺はスルーで。


  2007/3/3  蓬